「マイケルサンデルのハーバード白熱教室」からトロッコ問題を考える

マイケルサンデルのハーバード白熱教室では最初の議題としてでるものとして

「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?」

という議題が存在する。トロッコ問題についてを考えてみたい。

 

トロッコ問題

これの議論の内訳からみていきたい。まず例としては列車が走っているところに、線路の上に5人の男が存在する。5人の男に対してはんどるは反対の線路にきれば5人は助かるが、反対の線路にいる1人は死ぬ。

これはどうするべきだろうかというものだ。ほとんどの人間は対象を比較して検討する。5人と1人の命の場合は5人の命が重く、1人の命は軽いとなってくる。つまり、多数の人間の幸福のほうを支持する考えがある。

これが功利主義の考え方である。

 

功利主義は正しい?

そして私の考えも基本的に功利主義である。現代の人間の考えはほとんどこれだ。

サンデル教授の授業では学生に議論をさせてこの問題について理解を深めていたが、さらに理解を深めて自分の中の結論を出してみたいと思う。

トロッコ問題は「ある人を助けるために他の人を犠牲にするには許されるのか?」という倫理学の思考実験である。

 

人間がどのように道徳的ジレンマを解決するかの手がかりになると考えられており、道徳心理学、神経論理学は重要の議題となっている功利主義の考えをみていきたい。

 

ベンサムの功利主義

功利主義は行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用によって決定する考えである。社会全体の幸福を重視するという発想は昔からあるが、功利主義を体系化したのはベンサムである。

ベンサムの功利主義は古典的功利主義とも呼ばれ、個人の効用を総て足し合わせたものを最大化することを重視するものであり、総和主義とも呼ばれる。「最大多数の最大幸福」と呼 ばれることもあるが、正確には「最大幸福」である。この立場は現在でも強い支持がある。

 

カントの道徳論

トロッコ問題ではもうひとつのがんがえかたが存在する。だれを他の目的のために利用すべきではなく、なにもするべきではないという義務論である。カントの唱えた道徳論である。その内容は「汝の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して汝が同時に意欲出来る、という信条に従ってのみ行為せよ」というもの。

功利主義などを含む帰結主義とは対立する関係にある。カントは、理性によって導き出される普遍的な究極の道徳規則というものの存在を提起し、それに無条件に従うことが倫理の達成であると提唱した。

義務論者によれば、我々は健康で頭が冴える、理性的な時ならば、“それ自体で善いもの”が本当の善であり、それは“善い意志”であることを理解し理想するという。それ自体で善いものとは、何らかの目的のための行為ではないということである。

 

善い意志とは

「自己の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して自己が同時に意欲出来る、という信条に従ってのみ行為する」

で表される(信条は格率ともいい、自己が意欲する規則のこと)。

しかし、人間は短絡的な欲求などの様々なしがらみにより善い意志にかなった行為が出来ない場合が多い。そこでこの善い意志の行為を理性的なうちに義務とし自己に強制させておくことで、善い意志の行為化に接近する。

 

こうすることで短絡的欲求や気まぐれに惑わされること無く善い意志による行為を最大限行為化できる。義務になると上記の文が命令されるかたちとなり冒頭のものとなる。こうして善い意志は人間においては義務的な道徳規則となった。

 

義務論をわかり易くいえば、自分が行為したいことが、だれが、いつ、どこで、なぜ、いかに行為しても文句なしと自分が意欲出来る行為ならそれを道徳規則とし、その規則に従うこと、である。ここで気を付けることは、あくまで自分が意欲出来るから規則とすること、あくまで規則だから行為すること、規則を作る場合「~の場合」を付ける様な例外条項にせず、いかなる場合でも指令されることが妥当とすることである。

 

トロッコ問題の派生問題

道徳論によって、いままで自分の中で功利主義の考えが少し変わったことがよくわかる。ここから派生問題をみてみたい。

 

A氏は線路の上にある橋に立っており、A氏の横にC氏がいる。C氏はかなり体重があり、もし彼を線路上につき落として障害物にすればトロッコは確実に止まり5人は助かる。

だがそうするとC氏がトロッコに轢かれて死ぬのも確実である。

C氏は状況に気づいておらず自らはなにも行動しないが、A氏に対し警戒もしていないのでつき落とすのに失敗するおそれは無い。

C氏をつき落とすべきか?前述の問題と同様、A氏にはつき落とすかつき落とさないかの選択肢以外は無いものとする。

C氏ほど体重の無いA氏が自ら飛び降りてもトロッコを止められず、またその事実をA氏は理解している。

 

功利主義に基づけば、トロッコを分岐させることも、1人をつき落として脱線させることも1人を積極的に死に追いやり5人を助けるという点で等しい。

しかし多くの人が、1番目の質問では1人を犠牲にすることは許されると答えるのに対し、2番目の質問では1人を犠牲にすることは許されないと答える。

 

この二つの質問で異なる点は、最初の質問では行為者の行動自体は「分岐の切り替え」に過ぎず、1人の死は(たとえ結果を承知の上でも)その意図の直接の結果ではなく副次的な出来事(つまり巻き添え)と考えることが可能であるのに対し、次の質問でははっきりと「狙ってC氏をトロッコに激突させる」という行動をとっており、行為者の直接の意図と行動によって死ぬということである。

 

功利主義はやっぱり正しい?

ここから自分の功利主義の考えがゆらいでくるのである。他のたくさんの人間を助けたければ自分で、手をくだすしかない。しかもそれをすると殺人になる可能性さえも存在する。

ここの場面では功利主義の考えを捨てておき、この場面に関してなにも手出しをしないようにする。つまり、義務論に偏ることになることに気づく。

でもさらにつきつめると、自分は死にたくはないいし、殺したくないし、助けたいし、と利己主義の考えもでてくる。

5人を助けるのは自分の中での気分として、5人を引くことによって受ける損害や、精神的ダメージなども考えてしまうのだ。

 

質問に一貫して合理的な判断をくだせるのか?

1人を犠牲にして5人を助けるか、5人を犠牲にして1人を助けるかの、どちらかに解答を一貫できるのだろうか?

もし判断が一貫しないのであればそれはなぜだろうか。なぜ、場合によってはだれを犠牲にすることが許されて、他の場合には許されないと感じるのかを、合理的に説明できるだろうか。少なくともこれらのようなジレンマを一貫して合理的に解決できる倫理学の指針はないという話であった。

 

まとめ

NHKの番組でも放送していたハーバード白熱教室は非常に面白く、本も読んでしまった。日本の大学も白熱教室のやり方を真似するといいだろう。

この文章は6年前に白熱教室についてまとめたメモ書きであったが、まとめなおす課程で再度議論したくなった。

議論を深めていってもこれといった答えがでなくなったのあるが、答えがなくても思考していくことは必要だ。 世の中に正解はないのだから。